硬く瞼を閉じてもかすかに染みこんで来たのか、目に激痛が走ります。
成分が染みこんでくるタレによって眼球はその機能を失い、私が日の光を見ることはもうありません。
そのことに対するわずかな寂しさより、自分が食材へとなる喜びが勝っていました。
私はタレのプールの中で口を開け、周囲に満ちている大量のそれを飲み込みます。当然、鼻からもそれが体内に入ってきて、溺れているのと変わらない苦しみが襲いますが、根性で耐えました。
そもそも、タレが浸透しきった部分の身体は麻痺しつつあったので、本気で抜け出そうとしても、浴槽の縁に腕をあげるくらいが精一杯だったでしょうけど。
肺の中に空気の代わりにタレが入り込み、一気に気が遠くなります。少しでも多くの空気を吐き出すべく、努力しましたが、果たして本当に出せているのかもわかりません。
肛門の機械は絶えず動き続けており、身体がさらに膨らんでいるのがわかります。
きっと私の肉は美味しく食べてもらえることでしょう。
私はそう願いつつ、意識を闇の中に溶かしました。
漬け込まれた『私』が死んだようで、意識が元の肉体に戻ってきます。
「いかがでしたっすか? お嬢様」
タレを調合してくれたミラノさんがそう私に問いかけて来ます。その少し奇妙な言葉使いに、部屋にいた礼司さんが眉をひそめるのが見えましたが、私は特に気にしません。
「そうですね……『私』も努力はしましたが、やはり意思だけでタレを体内の隅々まで浸透させるのは難しそうですね」
ただ、そのことは事前にミラノさんにも言われていたことでした。
「やっぱ、そうっすよね。そうなると、あとは身体の各部に直接針を刺して、別個に注入するとかっすかねぇ……」
注射針程度の穴だとしても、身体を穴だらけにするのは少し抵抗があります。
無論最終的に調理する時には切り裂いてしまうわけですが、それとこれとは別の話なのです。
例えば野菜とて形の歪なものより、形の整ったものの方が美味しく見えます。味に関係ないとわかっていても、やはり見た目の美しさというのは重要なものです。
ましてや、いま議題に挙げているのは人肉なのですから。醜い者より綺麗な者を食べたいと思うのは自然の発想だと思うのです。
「うーん。できれば身体に残る傷は少なくしたいのですが……」
「それだと難しいっすよ……死んだあとでならなんとでも出来ると思うっすけど、生きたままとなると」
「難しいですねぇ……」
「これ以上タレの浸透力をあげてしまうと、今度は表面と奥でタレの濃度が違いすぎて、味がばらついちまいますし……」
ままならないものです。
ともあれ、今回はまだ初めての試み。まずはタレに漬け込んだ私の肉がどんな味になるのかというところもわかっていません。
「礼司さん、早速ですが漬け込んだ『私』を調理してくださいますか?」
料理人の礼司さんにお願いします。礼司さんは恭しく頷いてくださいました。
「承知いたしました。ですが、少々お時間をいただきます」
「タレが乾くまではお嬢様の前に持ってこれないっすしね」
浸透力が強力なあのタレですが、なんと一端乾くとその効力が失われて、タレの味だけが残るらしいのです。
オリジナルである私の身体にタレの味を染みこませるわけにはいかないため、その事実はとてもありがたいものでした。
私は漬け込まれた『私』の味を想像しつつ、どんな料理になって出てくるのかが楽しみでした。
防護服に身を包んだ男ふたりで、その部屋の中に入る。
ガスマスク越しにも濃いタレの匂いが感じられ、思わず礼司は顔をしかめた。
「……おい、ミラノ。本当に大丈夫なんだろうな、このタレ」
「信用ないっすねー。一応俺も同じ会社の社員なんすけど……」
ミラノは苦笑いと共にそう口にする。
彼の所属する会社は、お嬢様の家が率いる総合商社の子会社という立場にある。
大まかな枠組みでいえば、食人系統の会社であり、同じ所属といえるのだが、礼司とミラノではその対象とする相手に大きな差があった。
お嬢様のような富裕層をターゲットとした料理人である礼司と、一般庶民をターゲットとした会社員ミラノ。
扱う食材は同じ人肉でも、その扱い方には大きな隔たりがある。
決して礼司は一般庶民を対象としているミラノの仕事を軽んじているわけではない。
だが、それと同じ扱いをお嬢様にされては困る、というのも事実なのだ。
大量生産品である人肉と違い、お嬢様という人肉は存在が限られている。それを無暗に損なうようなことをすれば、首が飛ぶのは礼司なのだ。
「信用はしているさ。だが、無闇な信頼でお嬢様の品質に影響が出れば、それは専属料理人として私の落ち度になる。慎重にもなるさ」
その言葉を聞き、ミラノも少し僻みが混じっていたと認めた。
「僻みが入っちまってすいませんね……ここだけの話、富裕層の人らって俺らみたいなのは見下してくることが多くて。ここのお嬢様は……その、なんというか、変わってるっすよ」
もちろん悪い意味じゃ無くて、とミラノが弁明するのを、礼司は苦笑いで受け入れる。
「……かもしれんな」
彼らの主足るお嬢様は、誰にでも丁寧に接する。
決して身分による偉ぶった態度は取らない。
それは彼女が自分を『食用の肉』としか考えていないことの表れでもあった。喰う者と喰われる者、それらは互いに尊重されるべきだと考えているのだと、礼司は聞いたことがある。
実は、この世界でコピー体を食用にしている富裕層というのは少なくない。
本来のコピー体というのはオリジナルが事故や病気などで何らかの欠損を生じさせた時、そこを補う形で使われるものだ。
しかし、コピー体の寿命は短く、常に作り置いておくには短いスパンで繰り返し生み出す必要がある。新しいものを生み出すために古いものは破棄されていくわけだが、ただ破棄するのはもったいない、という発想が富裕層の食肉化を生み出した。
結果として、富裕層が競い合うようにして自らの身体を磨きあげ、美味しい肉を生み出すことが普通になった。
この館のお嬢様はそれが当たり前の時代に生まれ育った世代であり、それこそが彼女の富裕層の中でも珍しい価値観を生み出す結果になった。
お嬢様より前の世代の者は、『高貴な肉を喰わせてやっている』という自尊心の強い者が多く、お嬢様より後の世代になると、今度は食肉として提供する者が少なくなってくるのだ。それはまた別の話だ。
富裕層向けと一般庶民向け。
狙う方向も扱い方も違えども、人肉を扱う仕事人であるふたりが、協力してお嬢様の調理に取りかかった。
まずは、タレの底に沈んだお嬢様を引き上げなければならない。
「いつもはL字フックを口の中にぶっ刺して引き上げるんすけど……それだと雑に傷つけちまうんで、今回はこれを使うっす」
そう言って彼が取り出したのは、丈夫な金具が取り付けられている、バルーンタイプの口枷だった。
つづく